ノルウェー出身のトレイルランニング界のトップアスリート、スティアン・アンゲルムンド Stian Angermund がドーピング検査で陽性であったことを告白してからまもなく一年になります(DogsorCaravanの記事「スティアン・アンゲルムンド Stian Angermund がドーピング検査で陽性と告白、潔白を主張するも今シーズンの大会出場は困難」)。先月、スティアン・アンゲルムンドがポッドキャスト「Freetrail」に出演し、ホストのディラン・ボウマンを相手に、自身に降りかかったドーピング疑惑について詳しく語りました。2023年のUTMBのレース、OCC(距離55km、累積標高差3400m)での勝利ののちに、彼の尿サンプルから禁止薬物クロルタリドン(chlorthalidone)が検出されたことが発端となったこの問題は、トレイルランニング界に大きな波紋を呼びました。
事件の経緯とスティアンの主張
2023年8月31日のOCCのレース終了後に実施されたドーピング検査で、スティアン・アンゲルムンドの尿サンプルからクロルタリドンが検出されました。この物質は利尿剤であり、体重減少や他の禁止薬物を隠すためのマスキング剤として使用されることがあります。しかし、彼は一貫して無実を主張し、「薬物やサプリメントを使用したことはない」と述べています。また、彼自身が遺伝的に心臓発作リスクが高い体質であるため、利尿剤の使用は医師からも推奨されていないと説明しています。
スティアンはこのドーピング疑惑について、「この1年半は私のアスリートとしてのキャリアで最も困難な時期だった」と語り、自身や家族への心理的・経済的負担についても述べています。
反論を受けた調査とその結果
フランスアンチドーピング機関(AFLD)の調査では、AサンプルとBサンプルの両方からクロルタリドンが検出されましたが、その濃度は非常に低いものでした。さらに、サンプル保管や管理プロセスに不備があった(例えば検体を採取してから検査機関に送るまで、検査担当者がサンプルを自宅で5日間保管していた)ことが明らかになるなど、汚染が生じていた可能性もあったとしています。
最終的にAFLDは16カ月間の出場停止処分を提案し、スティアンは2024年12月にこれを受け入れました。この処分期間は遡及適用され、既に停止処分期間を経過しているため、彼は2025年シーズンから競技復帰が可能となります。
しかしこの間、彼はアシックスとのスポンサー契約を失ったほか、弁護士を雇ってのアンチドーピング機関との係争のために貯蓄のほとんどを使い果たしたうえ、現在は仕事を失った状態だといいます。
クリーンスポーツを実現するための負担は誰が負うべきか
今回のスティアンの事例は、トレイルランニング界におけるアンチドーピング体制の課題を浮き彫りにしました。スティアンが無実かどうかという議論とは別に次のような論点が残されています。
一つは、ひとたび疑惑が起これば真偽にかかわらずアスリートは重い責任を問われるのが現状だという点です。多少厳密さを欠く手続きによる検査結果であってもクロであれば弁明の余地は少なく、厳しい制裁を受けることになります。潔白を認められるにはアスリート自身が手続の不備や検体の汚染を立証することが現状では求められます。これではアスリートの負担が重すぎで、才能あるアスリートがトレイルランニングを敬遠する理由になりかねません。
もう一つは検査実務の運用の透明性や信頼性に疑いを残すような状況がUTMBですら存在するという現状です。アスリートを「一罰百戒」とすることでアンチドーピングの検査やルール運用のコストを下げることは理解できますが、それは手続の厳格さと公平さが保たれる場合のみの話です。検体を検査官が自宅で保管しては他のアスリートとの取り違えや検査官の自宅にある物質が混入する可能性も排除できません。検査から50日後にクロだと通知しても、アスリートが何が原因だったか立証することは困難です。
三つ目はアンチドーピングについて選手や主催者、さらには一般のファンも知識を身につけ、予防する意識を高める余地があるという点です。現在でもアスリートは不用意に中身の明らかでない薬やサプリメントを摂らないことは意識しているかもしれません。しかし、それだけでなく主催者には限られた予算であっても適正なドーピング検査を行う必要があること、エイドで提供する食品やファーストエイドについて万一に備えて全てリストを作成しておくことが求められます。一般のファンについては、アンチドーピングのルールや判断のプロセスについて理解して、疑いを受ける選手について先入観なしに評価することが期待されます。
スティアン・アンゲルムンドのケースは、公平性と信頼性を追求するスポーツ界全体への警鐘でもあります。
難しいトピックですが、読者の皆さんもどのように考え、トレイルランニングのコミュニティにどのように貢献できるか、を考えていただければ幸いです。
(写真は2016年スカイランニング世界選手権で金メダルに輝いたスティアン・アンゲルムンド(中央)Photo by DogsorCaravan)